進め!民間養成救急救命士(1)
民間養成救急救命士とは
講師
氏 名:眞砂 哲也(まさご てつや)
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所 属:鳴門市消防本部 消防署
出 身:兵庫県宝塚市
消防士拝命:平成14年
救命士合格年:平成14年
趣 味:スポーツ(ソフトボール)
シリーズ構成・講師
氏 名:天野 忠好(あまの ただよし)
所 属:江津邑智消防組合(島根県)
出 身:島根県浜田市
消防士拝命:平成14年
救命士合格年:平成14年
趣 味:読書、ランニング
救急救命士としてスイッチが入った瞬間
はじめに
月日が流れるものは早いもので救急救命士の資格を取得、また消防職員として拝名されてから早10年が過ぎました。
救急救命士制度の発足からも20年が過ぎ、消防拝名後の10年間を振り返っても、包括的指示での除細動が可能となったことら、気管挿管や薬剤投与の処置拡大、「傷病者の搬送及び受入れの実施に関する基準」など、新たな法整備などを含め救急救命士を取り巻く環境は刻々と変化してきました。
新たに救急救命士の資格を取得するための養成学校も、私が学生時代には数少なかったのが、今では救急救命士を養成する学校が30校と、全国各地に新設され、それに東京や九州、政令都市の研修所も加え、毎年約2000名もの新たな救急救命士資格取得者が生まれています。
これまでにも、専門学校教員や大学の教授という、指導者側からの目線で養成学校の特徴や問題点などを題材とした執筆はありましたが、前回から連載がスタートした、救急救命士養成校を卒業した救急救命士にスポットをあてた誌面は少なく、本稿では、連載第二誌として「救急救命士としてスイッチが入った瞬間」という題材で、民間養成学校当時からこれまでの約12年間を振り返り、私の経験したことを述べさせていただきます。
救急救命士としてのスタート
専門学校の経験として‥
「人と関わり、人の役に立つ仕事に就きたい」という思いから、建築学科の高校から、救急救命士という全く無知の医療の道に進路を変えました。
(ただ、建築というところから離れたいという気持ちもありましたが‥)
最初の半年間は毎週行われる筆記テストで赤点を取らないように、高校の期末テストのように、テスト前日は猛勉強に追われていました。
専門学校では、規律や体力錬成のため(?)、3日間の自衛隊仮入隊という体験もしました。仮入隊中、筆記試験の結果発表で2教科赤点という結果に「ヤバい!留年!」ということが頭を過り、自衛隊宿舎で夜も眠れず悩んだこともありました。
校内実習時間では、心肺蘇生法の訓練を日々繰返し、手技が身に付いたところから、学生が3人の班編成で卒業した母校などを会場に、その周辺の駅や路上で開催案内のビラを配り救命講習を実施しました。10人以上集まる日もあれば、講師3人に対し受講生が男性1名で、気まずい雰囲気のもと30分で講習終了という苦い体験もありました。
校内実習で、少しずつ想定訓練が始まると、学生同士で教科書通りの症状をもとに想定を作りあげ、観察を実施し病院前救護活動(様)の訓練を行い、少ない知恵を絞り出しながら試行錯誤し症例を作り出しながら訓練を繰返していました。
臨床実習では、二次病院や三次病院での病院実習、また海外研修等(写真1,2)もあり、高校卒業後の専門学校での2年間は、私自身、一、医療人としての救急救命士という人間に育ててもらえた大変有意義な時間でした。
この2年間の中で、あるきっかけを境に、私自信、救急救命士という資格の意味を自覚し歩みはじめた瞬間がありました。
それは、専門学校も1年目が終わろうとしていた時期でした。
その日は、久々に高校の親友と会う約束をしていましたが、時間を過ぎても親友は到着せず、携帯電話に幾度連絡をとっても不通でした。
翌日、親友の母から連絡があり「バイクで大学から帰ってきている途中、事故にあって昨夜亡くなったの」ということでした。
初めて、身近な人を亡くすという経験をしました。
通夜へ参列し、亡くなった親友の母親から詳しい内容を聞くことができました。
高校時代の思い出などいろいろと話しをした中で、今でも忘れることなく強烈に印象に残っている言葉があります。
それは、親友の母親が搬送先病院の医師から伝えられた言葉でした。
「事故の現場で救急救命士さんも、全力を尽くして頑張って活動してくれたみたい。そのお陰もあって、病院に駆け付けた時、最後に立ち会えたみたいだって。」
この言葉を聞いた瞬間、ドシンっと重いプレッシャーを受けたことを覚えています。
救急の現場を知らない私は、救急救命士は目の前にいる傷病者だけを助ければ良い。それが救急救命士の役割なんだという考えでした。現場活動自体はそうなのかもしれませんが…しかし、母親の言葉を聞き、救急隊一つの活動が、その傷病者だけではなく、まわりの家族や関係者など多くに影響を与え、それだけの責任を抱えているということに気付きました。これが私にとって学生から救急救命士へ気持ちを切り替え歩みはじめたスタート地点となりました。
当初の専門学校はまだまだ手探り的な感じであり、実習内容も血圧測定やCPR訓練、特定行為訓練を繰り返しながら、学生たちが実習の内容を考えていくということも多く、訓練人形を相手に観察や処置の技術を日々練磨していました。
2年目からは病院実習が始まり、本当の患者さんと触れ合う機会が増えました。患者さんとも雑談しながら楽しく実習をしていましたが、時には実習先の病院に救急搬送されて来た患者さんが自分たちの目の前で死亡判定され、その裏で患者さんの家族の悲しみの場面に遭遇することもありました。
高校卒業の延長で医療の道へ進んできた者が大半の学生たちにとって、この経験は大変辛く、医療の現場を考えさせられる時間だったと思います。
病院実習前に、「命ってなんだろうか?」ということを、学生で考えたこともありました。学生一年目には、その答えは見つかりませんでした。しかし、親友との別れや、母親の言葉、病院実習での経験から、一つの命は患者さんのものであるとともに、多くの人に支えられ、見守られているものであるということに気付かされました。
消防に入った当初は、まだまだScoop&Runの考えが強く、病院から引き揚げる車内等で、「高齢者の方には特定行為やせんと、さっさと搬送することがええんちゃうんか?助かっても家族やって医療費の負担がかかるしな〜。」という言葉に上司と口論になったこともありました。
救急救命士としてのスイッチが入った瞬間
消防での経験として‥
専門学校を卒業し、救急救命士の合格発表にハラハラしながら、平成14年4月に消防職員として拝名され、半年間の初任科教育を終えたのち職場での現場活動が始まりました。当初、職場の救急救命士有資格者は7名しかおらず、私は初任科教育を終えた3ヶ月後の1月から救急隊員として現場活動にあたっていました。
民間の救急救命士養成学校を卒業し、消防に入るといった者は私が初めてであり、配属後は専門学校のことなど上司・先輩からいろいろと聞かれながら、どこか特別扱いされた感じを受けつつ日々の業務をこなしていました。兼任業務である職場のため、配属当初は即戦力の救急救命士の隊員として扱われ、救急現場では資格の責任とともに観察や判断も任されるというプレッシャーの責任もあり、それ以外の消防や救助等の知識や技術の習得も成さなければならず、日々、取扱説明書やメモ帳を見直しながら、一つ一つ覚えていくという毎日の繰返しでした。
救急隊員として救急車に乗り出し約1ヶ月が過ぎた頃、その日は救急隊員として活動にあたっており、ある一件の交通事故の事案に出場しました。
「県道で乗用車の単独事故により1名の負傷者」という指令内容でした。現場到着し状況確認したところ事故車両の破損は目立ちましたが、傷病者は意識清明で、自力で外に出ており路地に座っていました。軽度の腹痛を訴えており、状況評価の時点で高エネルギー事故と判断していたため、傷病者を観察し全脊柱固定を施し、隊長へ観察結果の報告をした後、その状況を指令室へ連絡し病院選定を依頼しました。
管内には三次医療施設は無く、救急告示の二次医療施設が2ヵ所、同じ二次医療施設でも総合診療病院と個人病院です。
指令室より無線連絡が入り、搬送病院は後者の病院となりました。搬送するルートは前者の病院の前を通過することになります。現場を出発し搬送中の車内で、経過観察を続け、総合診療の二次病院の前を通過する手前で、傷病者の容態が悪化し腹部の膨隆も視認できる状態となっていました。
ここで搬送病院の変更、せめて病院へ一報連絡するべきでありましたが、搬送先病院まで1キロ付近であったため、隊長への報告や無線を手に捕ることができず、そのまま搬送しました。病院到着後に状態を医師に伝えると、すぐに車内で観察となり、そのまま前者の医療機関へ転送となりました。
院内での的確な処置により傷病者は数日の入院後に後遺症なく退院されました。
この事例が救急救命士としてスイッチを入れてくれました。
「傷病者は病院や医者を選ぶことができたとしても、救急隊を選ぶことはできず、例え1年目の救急隊であっても、救急救命士として乗車し活動にあたっている以上、呼ばれたら最後まで目の前の傷病者に向き合い責任と使命感を自覚し、全力で活動を全うする」
「同じような経験を繰り返さない」
と自分自身に言い聞かせたのです。
救急隊はチームです。一人一人が活動を把握しなくては活動が成り立ちません。
その事案以降は、自分の観察や判断力の向上とともに職場への普及も視野にJPTECコースへ参加し外傷教育を学びだしました。その他、ICLSやPSLS、近年では、MCLSやCTASなどの新しい取り組みにも参加し現場での観察・処置・病院選定などを研鑽しながら、さらにその成果を職場へ還元しています。
配属10年が経過した今は、民間養成学校を卒業して新たに配属される後輩に、自分と同じ苦労を経験させないために、良い救急隊作りを考えながら活動しています。
一つ一つの活動を大事にして
救急業務は、内因性または外因性の傷病者のうち、医療機関へ緊急に搬送する必要がある者を、医療機関に搬送することです。
救急現場へ到着し傷病者に接触したときから、医療機関へ搬送し傷病者を医師に引き継ぐまでの傷病者管理の責務は救急隊にあり、そのため救急隊は一つ一つの活動に全力を尽くし、傷病者を医療機関へ搬送していきます。
医療機関への搬送を終え病院を引き揚げる際に、家族の方から「お世話になりました」「ありがとうございました」という言葉を頂くことがあります。その言葉に対し、今の活動はこれで良かったのか?もっと良い活動ができなかったか?と振り返り自問自答することがあります。
傷病者や家族にとって最善を尽くせたのか、あの時の親友の母親のように、本当に心から感謝して頂けているだろうか?と考えたりすることもあります。
事案を振り返った時に、100点という正解は無いのかもしれません。ただ、それにできる限り近づけることが大事で、そのためには振り返りが大切であると思います。
現在は、病院前救護活動のほとんどが軽傷患者への対応であり、またその大半が、救急活動の枠を超えた、いわゆるタクシー代わりのような活動かもしれません。
しかし、数少ない重篤な患者、また軽傷でも容態変化を起こす患者を見逃さないためにも、民間養成学校でできる数多くの実習を大切にしていただき、どんどん学生時代に自問自答し、振り返り、知識を積んで頂きたいと思います。
また、民間養成校では病院実習の時間が多く、そこで病院の医師や看護師の方にも質問や相談をし、そして患者さん(生身の人)からの観察力をしっかり積んでおいて欲しいと思います。現場に出ると自分自身の五感だけが頼りになることもあります。
専門学校時代の数多くの経験は、その時はこんなことと思うようなことでも、実際に現場に出て本当に活かされることがあります。
長時間の病院実習で数多くの患者さんと触れ合い実習をしたことにより、血圧測定や静脈路確保の穿刺などの基本手技の向上は当然ながら、それ以上に、患者さんの目線に立った言葉遣いや考え方を学ぶことができました。この部分は、救急救命士養成民間学校のカリキュラムならでの学び方であると思います。
民間養成学校を卒業し、現場活動へ出ていけば周り全てがあらゆる法に縛られており、職場間や医療機関、また傷病者やその家族とのトラブルを数多く耳にすることもあります。
また、自らトラブルを経験することになるかもしれません。
淡々と人形相手の訓練を重ね、現場での観察・処置の技術だけを習得するのではなく、病院実習の時間や校内実習の中で人と人とが触れ合うことにより、適切な言葉で的確に伝わるようなコミュニケーションできる力を身につけましょう。救急現場で傷病者や家族、関係者に信頼感を与えることで大切で、それが家族や関係者と協力関係を築き、現場活動が迅速に進行し、トラブルなどを防ぐことにも繋がります。
おわりに
「救急隊のお兄ちゃん」から「救急救命士のおじちゃん」。
消防署に見学に来た子供の呼び方も変わってきました。自分ももう若くないな〜と考えつつ、社会的にも救急救命士が認知されてきていることが嬉しく感じています。
「人と関わり、人の役に立つような仕事」をしたいと漠然と進路を考えて、救急救命士という道を歩み始めましたが、一つのきっかけで救急救命士としてのスイッチが入りました。学生の中には、養成学校入学前から「昔、救急隊に運ばれた時に親切にしていただいた!」「家族が運ばれたときの救急隊の活動がすごくて!」「家族が倒れた時、一生懸命助けてくれた!」というように救急隊に憧れを持ち、「自分もあの時の救急救命士のようになりたい」と、強い意思を持って励んでいた者も多くいました。
新しく救急救命士になろうとしている皆さんには、市民のニーズに応えるために、
一、医療人としての救急救命士であり、
一、消防組織(地方公務員)の行政職としての救急救命士である
ことの責任と役割を自覚し、日々の救急活動を遂行できる、そして今後も変化していくだろう環境に順応できる救急救命士が現場で活動していって欲しいという思いを最後に、次回の連載者へと引き継ぎたいと思います。
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