151106転機となった救急救命士へのチャレンジを振り返って

 
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シリーズ 救命の輪をつなげ!女性救命士

第9回

転機となった救急救命士へのチャレンジを振り返って

八戸市立市民病院 看護局 主任看護師 沼宮内元子

・氏名:沼宮内元子(ぬまくないもとこ)
・所属:八戸市立市民病院
・救命士合格年:平成○○年(乙女の秘密)
・趣味:フラワーアレンジメントなどお花に関すること(あまり時間がなく、やれなくて趣味と言えるかどうか?)


シリーズ構成

冨高 祥子(とみたか しょうこ)
会津若松地方広域市町村圏整備組合消防本部 会津若松消防署


≪経歴≫
青森県十和田市出身。看護学校卒業後、県外の病院に就職、その後十和田市立中央病院に就職。在職中に救急救命士免許収得し、翌年度より十和田地区消防事務組合(現在:十和田地区広域事務組合)へ派遣され、救急隊員(救急救命士)として3年間勤務。派遣解除後は再び十和田市立中央病院看護師として勤務(外来および一般病棟)

2007年6月十和田市立中央病院退職。

2007年7月八戸市立市民病院急患室(救急外来)勤務。

2009年3月青森県ドクターヘリ運用開始、フライトナースに任命、活動中。

2011年救急看護認定看護師の資格収得。

≪救急救命士免許修得後、消防へ派遣されるまで≫

私の地元十和田市の病院で看護師として勤務していたが、何かやりたい、何かに取り組んでみたい、挑戦してみたいと思い、何か資格を取ろう、と思いついた。資格収得に関する本や看護雑誌などで調べていくと『救急救命士』があった。当時、看護学校を卒業した者は救急救命士国家試験の受験資格があり、研修を受けたり救急救命士の学校に入学して勉強する必要はなかったので「これにしよう」と割と安易に決めた。そのころは救急救命士という資格が誕生して数年しかたっていなかったので、有資格者数を増やしたかったのだろう。私も含め多くの看護師(当時は看護婦・看護士)が受験し、消防職員よりもかなり多く受験していた。消防職員は救急課程を修了していなければならなかったり、救急車乗務時間にも規定があったり、救急救命士養成所へ入校するために何年もかかってしまう。年間の予算上、1年に1~2名程度、またはそれ以下の人数しか入校できない消防もたくさんある。当時私はそんなことは全く知りもせず、自分のチャレンジのつもりで受験を決めた。私は救急分野はどちらかと言うと苦手だったので、救急救命士国家試験対策の問題集で勉強したり、心電図や救急に関する研修会に参加し勉強した。国家試験を受験するということをきっかけに、苦手分野を勉強し、さらに知識を深めることができた。

国家試験は合格できた。その当時地元の新聞の片隅に小さく救急救命士合格者として私の名前が載った。すると、当時の十和田地区消防事務組合消防長より、「十和田市には救急救命士がいないので消防署で救急隊として勤務してみませんか」と声をかけられた。「え!救急隊員って?救急車って?消防?どうやって仕事するんだろう?そんなこと私なんかにできるの?」という思いばかりが浮かび本当に驚いた。その後、消防長より施設見学に招かれ施設内の説明を聞いたり、救急車出動の場面を見学した。1か月ぐらい多くのことを考えた。病院勤務のままのメリットデメリット、消防での仕事でのメリットデメリットおよび不安なところ、などを紙に書きだしたり、家族に相談したりずいぶん考えた。結局、自分が今までやったことがないことへの興味が増強したこと、誰もやっていないのだったら私がやろうかなと思ったことで決心し、消防側に救急救命士として消防署で勤務したいという意思を伝えた。市役所や病院側と調整し翌年度4月より救急救命士として十和田地区消防事務組合へ派遣された。

≪救急現場からわかったこと、学んだこと≫

派遣後、消防学校初任科教育を受け、救急隊員・救急救命士として現場に出動し3年間勤務した。ずっと病院内で勤務してきたので、屋外に出て仕事をするということがとても新鮮だった。しかし当初とても緊張していた。看護師として多くの患者と接していたはずなのに、救急車の中の患者に対してうまく声をかけられなかったり、バイタルサイン測定をうまくできなかったり、時には手が震えたりしていた。それまでの看護師の経験に自信が持てなくなりそうだった。出動していない時に訓練をしたり、出動回数を重ねることで救急車の中でやるべきことがだんだんわかってきたり、軽症患者や家族・関係者が笑顔で私に接してくれたり、次第に救急車内での雰囲気がわかってきた。

傷病者が発生した環境は様々である。例えば、いつも通る道での交通事故、よく行く店での急病人、公共施設でのけが人。一番出動が多かった住宅内はお茶わん・テーブル・トイレ・布団・テレビなど生活そのものが目に入ってくる。これらのことから「救急患者」がとても身近なところに存在するということがよくわかった。それまで「患者」は病衣を着ていて点滴をしたり検査や手術をした人であり、意識したことはなかったが自分とは遠い存在だったことに気がついた。救急患者は服を着ている、生活の中にいる人なのだとあらためてわかった。これらのことから私が救急隊員として一番思ったことは、救急隊員が患者の一番苦しい状態を見た人、一番初めに状況がわかった人であり、病院搬送の連絡や報告は適切にしなければならないこと、患者と病院の間に入り、患者に不利益なことがないように調整する役割であると思い、できる限りそのように行動をするよういつも心がけた。

身近な所に救急患者が多いことがわかったが、現状から目を背けたくなる場面にも何度か遭遇した。交通事故現場・自殺行為現場・労災事故現場など、自分の目が信じられないような場面である。テレビや映画での作り物のシーンのようにも感じた。でも、これは現実。私自身が見ている現場。信号機や電柱が倒れている、機械に人が挟まっている、車やトラクターがひっくり返っている、などいろんな場面に遭遇した。救急の現場ではどんな場面に遭遇しても目を背けず冷静に観察・処置しなければならないということを学んだと思う。

私は救急車を受け入れる救急外来での勤務経験はなかったが病院勤務をしていたので立場としては病院側だった。救急隊員として勤務することで消防側の立場へと変化した。そのおかげで病院側の対応を客観的に見て知ることができた。例えば傷病者が発生し病院搬送のために連絡をすると、平日日中と夜間・休日の対応システムがかなり違うため、病院受け入れ決定まで時間がかかるということがわかったり、病院と救急隊間のコミュニケーションの取り方や接遇の現状について知ることができた。

今では当たり前になったが、当時全国に女性救急隊員はほとんどいなかった(東京消防庁に10名ぐらいいたような記憶があるが定かではない)十和田地区には女性消防士もいなかった。救急救命士がまだ少数しかおらず、私は「女性救急救命士」ということでずいぶん注目された。テレビや地元新聞などの取材も何度かあった。私は派遣されて救急救命士としてまだ何もしていない、「仕事」に対して性別は関係ないと思っていたので、なぜこんなに注目されるのだろうと思っていた。しかし「女の人が来てくれた」「女性でよかった」などという言葉が現場で聞かれたり、他の救急隊員から「産婦人科関連の症例や女性の観察をしなければならない時は、男性に見られるよりも同じ女性のほうがいいと思う」などと言われたり、救急救命士としては何もしていない私でも女性としては誰かの役に立ったのだろう。

写真2
ドクターヘリの前に立つ私

≪現在、感じていること≫

私は救急救命士になるための専門の学校などで勉強をしたのではなく、国家試験に合格しただけの救急救命士である。救急救命士と言っても名ばかりで中身のないのではないかと感じた。派遣が解除された当時はとても残念な気持ちが強く再び勤務できないものかと思っていたが、中身がない救急救命士が現場で何ができたのだろう?と今は思う。

ドクターヘリ要請がありフライトナースとして出動すると、救急隊員として出動していた当時の感覚がよみがえり、とても懐かしい感じがする。医師・看護師が現場に出動して、早く傷病者に接することができるようになるとは、消防で勤務をしていた時には思ってもいなかった。救急隊や救助隊などの消防職員でなければ現場へ出動し活動することはできないと思っていた。病院側は患者を「待つ救急」だけではなく「出向く救急」「攻めの救急」も加えられたと思う。時が経つに連れ、救急の体制・対応・考え方がどんどん変化しており、とても楽しい。

救急救命士として勤務していた当時から現在まで、多くの救急隊員はじめ消防職員と知り合うことができた。フライトナースとして現場出動すると顔の見える関係があり、コミュニケーションが取りやすい。消防で勤務した体験が現在とても役立っていることであり、感謝している。

写真3
BLSOコースの救急車内での実習をヘリ格納庫でやっていたところに、ドクターヘリ要請があり、出動のために準備しているところです。私も確か受講生だった時です。

救急救命士国家試験に「チャレンジする」ことだけで終わるのだと思っていたが、それは終わりではなく「救急」の始まりとなってしまった。チャレンジだけのつもりが私の人生の転機の一つとなってしまった。病院勤務に戻ったばかりの頃は外来に配置され、救急外来の担当の日もあった。その後一般病棟へと配置されたが、救急にかかわることはやめなかった。自分の休みとお金を使って、救急に関する研修に参加したりインターネットや救急看護雑誌などから情報を得たりしていた。病棟は救急にはあまり関係がない分野だったが、自分自身の中で救急と縁を切ることはなかった。そして再び外来に配置され救急外来の担当の日もあったが毎日ではなかった。毎日救急に関わり、救急の中に身を置いて仕事をしたいと思い、現在の病院へ転職した。ERでの勤務をしているが、ドクターヘリ事業開始と同時にフライトナースとなった。そして救急看護認定看護師になった。救急救命士国家試験へのチャレンジのつもりだったのにどんどんいろいろなものにチャレンジしていた。救急は苦手な分野と思っていたのにいつの間にか大好きな分野になっていた。

「救急」は日常生活の中に、誰にでも起こりうることであり、いつ発生するか誰にも分からないこと、すごく身近なものであると、つくづく思う。心肺蘇生法の普及活動や院内での救急看護教育やフライトナースの育成など、まだまだやるべきことがあり終わりはない。私はこの先もずっと「救急」の中で「何かをする人」として活動したいと考えている。


写真4
認定看護師教育課程の修了式です。


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15.11.6/5:37 PM

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