130525進め!民間養成救急救命士(10)セルフイメージを今にシフトして夢を叶えよう!

 
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130525挫折のすすめ~事故、留年、そして不採用

130525挫折のすすめ~事故、留年、そして不採用

氏名:井上裕文(いのうえひろふみ)

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出身:和歌山県伊都郡高野町
所属:高野町消防本部(署)
消防士拝命:平成16年
救急救命士合格:平成13年
趣味:登山、ツーリング

管理者より:この民間シリーズの最高傑作です


シリーズ構成・講師

氏  名:天野 忠好(あまの ただよし)
所  属:江津邑智消防組合(島根県)
出  身:島根県浜田市
消防士拝命:平成14年
救命士合格年:平成14年
趣  味:読書、ランニング

>救急救命士を成長させるもの


1.はじめに

皆さんの中で、高校や大学で留年を経験した方はどのくらいいますか?テストで赤点をとって再試を受けた方は数知れずでしょうが、留年をするという方はなかなかお目にかかれません。留年は極力避けて通りたいものです。私も皆さんの多くと同じように、高校を卒業し、救急救命士の資格を取り、消防の採用試験に合格して世間に出て行くのだろうと思っていました。

私の挫折は、救急救命士を目指し希望に満ちあふれていた頃に、交通事故に遭ったことから始まります。私は民間の救急救命士養成校を留年しました。その後卒業しましたが、消防職員採用通知には不合格とありました。なんとか採用が決まった航空自衛隊に入隊し、救急救命士とは全く無縁の仕事を2年間していました。航空自衛隊ではペーパー救急救命士として自分の未熟さや、救急救命士の資格の重さに悩む時期が2年間続きました。

出だしからとても暗い内容ですが、せっかく本稿を読み始めたあなた!是非最後までご覧下さい。こんな暗い経験でも、このページにある私の笑顔を見て下さい。この挫折が、この笑顔の支えになっているのです。

本稿では、私の経験した数々の挫折をもとに、民間救急救命士養成学校卒業生として投稿させて頂きます。

2.消防と町の紹介

私の所属する消防本部は少し特異な環境にあるため、簡単に宣伝させて頂きます。

写真1
高野山小学校雪上運動会の様子です。

標高800mの位置にある弘法大師空海で有名な高野山に消防本部があります。和歌山県とはいえ冬になれば雪が50cm程積もり(写真1)、氷点下10度になる日もあります。

写真2
電気セラミックヒーターです。
救急出動直前まで車内を暖めていますが、出動の際は降ろします。

このため、待機している救急車の中には電気セラミックヒーター(写真2)を入れて酸素加湿器の水が凍らないよう温めています。

写真3
指令室勤務中の後輩です。

夜間の当務人員は5名(写真3)で、管轄外病院への搬送は出動から帰署まで少なくとも2時間はかかりますので、直ぐに非番待機となります。救急件数は少ないものの、搬送時間が長くなる僻地にこそ救急救命士の存在が活かされるのだと私は考えています。

写真4
高野山のシンボルとも言うべき、壇上伽藍根本大塔がライトアップされた写真です。
是非一度お参り下さい。

高野町は人口3600人程度の小さな町ですが、世界遺産の町(写真4)でもあるため、国内はもとより、海外からの観光客も沢山訪れます。救急車内には英語、中国語、タガログ語等、計11カ国語の情報収集シートが積載されていますが、英語が苦手な私にとって外国人の救急搬送は通訳の人に頼り、ジェスチャーでの対応となってしまい今後の課題です。

写真5
高野山少年野球クラブ

小さな町なので、地元の人との付き合いも大切です。医療機関との顔の見える関係に加え,一般住民の方々との顔の見える関係は119番通報時にも安心を与え、現場活動もスムーズになるからです。私が地域で行っている活動は少年野球(写真5)と

写真6
職員10名で町内ソフトボール大会に出場!
非番待機がかかれば即棄権という条件で出場しました

青年部(写真6)です。地元では、救急救命士の資格を取得してからずっと変わらず言われつづけている言葉があります。

「何かあったら助けてね」

昔はこの言葉に苦しめられました。しかし今ではたくさんの人に支えられ「わかった」と言えるようになりました。

3.救急救命士を目指した理由

私が救急救命士を目指したきっかけは、周囲の人が大怪我をしたわけでもなく、急病に陥ったわけでもありません。ましてや、公務員として落ち着いた職業を選びたかったわけでもありません。私にはなりたい職業が何一つありませんでした。

高校時代、野球で鍛えた元気な体だけが取り柄であった私は、学校の廊下に貼っていたポスターの救急救命士の文字に目が留まり、消防職員なら自分に向いているかもしれないと、漠然とした気持ちで救急救命士科の門を叩きました。

専門学校に入学して担任の先生が最初に私達生徒に言った言葉を私は今でも忘れません。

「半年でクラスの人数を半分にする」

その後、毎週テストを行い、1つでも単位を落とせば即落第という過酷なカリキュラムが発表されました。

同級生が目に見えて減っていく中、入学したことを後悔する日もありました。昨日まで机を隣にして話をしていたあいつが、突然学校に来なくなるのです。よく見るとロッカーの名札も外されており、先生が出欠の点呼をとるときも、彼の名前が呼ばれることはありません。それが日常でした。

写真7
三期生時代に所属していたバスケットボール部の仲間達です。

誰もが必死でした。私は、本気で救急救命士を目指す周囲との温度差を感じつつも、友人達に支えられながら毎週行われるテストをなんとか乗り越えていました(写真7)。

4.交通事故で専門学校を留年

学校帰りのある日、原付バイクを運転していると突然の大きな音と共に体が吹っ飛ばされました。気付けば人だかりの中、バイクから離れた歩道に、血まみれで倒れている自分がいました。バイクとは6m位距離があったと思います。背中から落ちた衝撃で一瞬呼吸が止まり、全身を襲う激痛が車に跳ねられたことを直感的に教えてくれました。

たくさんの人が慌てた様子で、私を助けようとして下さっているのが、痛みを耐えている中でもわかりました。

しかし、初めて味わう全身の激痛で、私は不安を拭うことはできませんでした。このまま死ぬんだろうか・・・。とさえ思いました。すると、誰かが大きな声で「救急車を呼べ!!」と叫んだのが聞こえました。大きな不安が、この救急車という一言で少し落ち着いたのを覚えています。

事故現場は消防署から約3分の場所でしたので、恐らく通報から5分程度で救急車が到着したと思います。学校の授業で習ったとおり、痛みと事故の不安で、5分が10分にも15分にも感じました。

そしてピーポーの音が近づくにつれ、周囲の人の慌ただしさも次第に治まり、救急車が到着した時には私を含む全ての人がホッとした表情を浮かべていました。

消防無線の音が飛び交う中、救急隊の方に手際よく応急処置を施された後、直ぐに直近の病院に搬送されました。診断結果は腎損傷、左腓骨骨折、右足関節捻挫、全身打撲。事故の時、不安だった自分に安心を与えてくれた職業は、私に事故以上の衝撃を与えました。「ようやく見つかった・・・。自分がなりたい仕事。」

私は、病室のベッドの上で、初めて救急救命士になりたいと思えたのです。

5.留年を乗り越える

救急救命士になりたいという意欲とはうらはらに,入院は留年を意味していました。入学してわずか4ヶ月です。

留年するには学費や生活費が必要です。学生であった私にそれらを払う術はなく、両親を頼るほかはありませんでした。決して裕福な家庭ではなかったのですが、「次はないぞ」の一言で両親が借金をしてくれました。勉強ばかりしている私に比べ、本当に苦しかったのは両親です。この時の親の言葉、お金を渡してくれたときの表情は今でもしっかりと覚えています。

退院後は、自分の決意と両親の気持ちに応えるべく、自分にできる最善の努力をしました。留年することが決まっていたにも拘らず学校には通い続け、少しでも家庭の負担を減らすため、放課後は教科書や資料を片手に居酒屋でのアルバイトを始めました。その時の私には、「将来やりたいことは特にないけど、とりあえず救急救命士の学校でも行ってみるか」といういい加減な気持ちはありませんでした。あるのは「救急救命士として社会貢献し、両親に恩返しをする。」というはっきりとした目標です。

写真8
4期生とライフセイバーの訓練に参加した時の写真です。

翌年、生き残ったクラスメイトが進級する中、私は1年生クラスのままでした。すでに覚悟はしていましたが、悔しくて情けない気持ち、恥ずかしい気持ちもありました。そんな私はクラスの中でも異色の存在です。最初は壁もありましたが、明確な目標を持った私には、そんな壁などむしろどうでもいいことでした。仲間達は温かく迎え入れてくれ(写真8)、共に協力し合い卒業することができました。

6.就職に失敗

救急救命士になるために私にできる努力はしましたが、それでも地方公務員試験官は私に合格の通知を出してはくれませんでした。在学中に受験した消防職員採用試験もことごとく不合格で、両親への罪悪感や自分の不甲斐なさに悔しくて夜も眠れませんでした。

そんな中、救急救命士の資格が活かされると聞いて航空自衛隊を受験し合格することができました。消防以外の職につくことは不本意ではありましたが、これ以上両親に迷惑をかけることはできないと思っていたので、働き口のなかった私は甘んじて航空自衛隊に就職することとし、公務員試験の勉強を続けることとしました。

写真9
教育隊での野外総合訓練での写真です。

しかし、やはりここでも厳しい現実を突き付けられます。専門学校卒業式の次の日から数日間、最終的な身体検査や犯罪履歴等の調査を受けて、山口県防府市にある航空自衛隊の教育隊に送られました。そこで私に待っていたのは、3年間、独り暮らしをして自由気ままに過ごしていた今までの生活と違い、衣食住を文字どおり共にする団体生活と、分刻みの規律正しい生活でした。髪型はみんな同じに刈られ、毎日鉄砲を持って何キロも走らされ(写真9)、消灯時間にはもうクタクタでした。とても公務員試験の勉強をする時間などありませんでした。

7.ペーパー救急救命士の重圧

自衛隊では、鉄砲を撃ち、槍を突く訓練(銃剣道)が続きます。救急救命士の資格が活かされると聞いて入隊しましたが、救急救命士とは真逆のことをする毎日・・・。国家試験に合格し、ますます強くなる消防への気持ちが、別に飛行機を好きで入隊したわけでもない私に、焦りと周囲との温度差を感じさせました。

当時はまだ救急救命士の資格は珍しく、同僚や上司ですらこの資格がどういう物なのかを知る人はいませんでした。
「かっこいい名前の資格だね。」
「何かあったら助けてね。」

軽い気持ちで言われていたのかもしれませんが、在学中に行った病院実習だけが私の経験した症例のなか、院外で倒れた人など見たこともなく、持てはやされ、期待されるのはとても辛いことでした。

「誰か倒れたらどうしよう。」

国家試験合格後、全然違う仕事をしているのにもかかわらず、仕事の合間をぬって救急救命士標準テキストを読み返す状態が続き、初めて自分が取得した資格の重さに気づきました。

訓練中に熱中症や擦過傷程度のことはありましたが、怪我になれている自衛隊員の手当てに比べると私は劣っていたかもしれません。幸いにも私の周囲で大きな事故はありませんでしたが、何かが起こっていたとしても、何一つ救急救命士らしい事はできなかったでしょう。

 写真10
自衛隊教育隊時代の飲み会です。大変楽しかったです。

写真11
飛翔!教育隊が終わり、全国の基地に飛び立った時の写真です。

教育隊が終わり(写真10,11)岐阜基地にある高射群(対空ミサイルの隊)に所属することになった私の仕事は、ますます救急救命士とかけ離れました。新人の私は毎朝6時30分に出勤し、先輩のデスクを拭き、コーヒーの準備をした後、10kmのランニングをして、通常業務を行います。また、いつ終わるとも知らされない野営訓練で、一週間お風呂にさえ入れないときもありました。そんな自衛隊員としての仕事をしながら公務員試験の勉強をすることは学生時代以上に厳しく、気づけば救急救命士の資格を持っていることを隠すようになっていました。

もう消防への就職は無理なのかと半ば諦めかけた時、地元での救急救命士採用試験の情報を得て、最後のチャレンジと心に決めて勉強に励みました。

そして、2003年に勃発したイラク戦争へ自衛隊員が派遣されることとなった年、晴れて消防職員への採用が決まったのです。

8.消防に転職

写真12
初任科時代の小隊写真です。

念願が叶い、救急救命士科の門を叩いてから5年の年月が経ち、地元の高野町消防本部に転職することができました(写真12)。しかし、資格取得後、2年間の年月は恐ろしい程に私の記憶を削いでおり、一生懸命勉強した国家試験の内容もわずかにあった病院実習での経験もゼロに等しいものとなっていました。また、私が鉄砲を持って大声を出して走っていた間にも救急情勢は進化しており、除細動は包括的に行えるようになり、標準テキストも改定され、聞いたこともなかったJPTECが外傷現場の基本的な活動となっていました。

9.署長の言葉

私の所属する消防では、白い救急服は救急救命士しか着ません。消防に就職し、消防学校で初任科教育課程を修了後、救急救命士就業前病院実習を経て、ようやく救急車に乗れるようになった時、私はついに救急服の袖に手を通す時が来たと、今か今かとその瞬間を待ち遠しく思っていました。しかし当時の署長はそれを許してはくれませんでした。

「救急服なんか着て、救急救命士と間違えられたらどうするんだ。」

私は、署長に呼び出されたこの時、救急服を手渡してもらえるものとばかり思っていました。一度も救急車に乗ったこともなく、2年間のブランクがある私に反論できるはずもなく、実力を見抜かれた私が着ていた服は夢見た救急服ではなく青い活動服でした。

写真13
和歌山メディカルラリーが地元の高野町で開催された時の写真です。

現場経験のない私が少しでも早く先輩救急救命士に近づけるよう、先輩の薦めでBLS、JPTECE、ACLS等の受講や、メディカルラリー(写真13)にも出場しました。そして、緊張感に包まれた現場を経験し、テキストではわからない生の匂いや音を聞き、救急出動の帰りの救急車の中で何度も怒られたおかげで、少しずつブランクを埋めることができました。

そして、採用から約3年が経過し、ようやく救急服を着て出動することを認めてもらえるようになりました。先輩達に「似合わんなー」と言われながら、恥ずかしいやら嬉しいやら。本当の意味で、夢が叶った瞬間でした。夢にまでみた救急服。私はしばらく救急服を抱きしめたまま、離すことができませんでした。

10.挫折のすすめ

挫折を乗り越えるきっかけは自分の強い信念であったり、家族や友人の支えであったり、本を読むなど人それぞれあると思います。こうして原稿を書きながら過去の記憶をたどる中、私の場合もそれらに大きな変わりはありません。大事ことは挫折に何を学びどう行動するかでした。

交通事故に合い留年した私は、そこで両親の苦労を初めて知り、救急隊の活動を身を以て体感し、本気で救急救命士になると決意しました。自分のための勉強でなく、両親に恩返しするため、社会貢献するために勉強することで、本気の勉強とはどういうものかを学びました。ペーパー救急救命士となって初めて資格の重たさに気づかされました。

私に訪れた挫折も例外なく意欲や気力を消失させ精神を追い詰めました。しかし、挫折は私にいつも新しいことを教えてくれる良きパートナーでもありました。与えられた状況で最善を尽くしがむしゃらに頑張ったからこそ今の自分があると私は実感しています。だからこそ私の顔はいつも笑っている・・はずです!

一方で、挫折する方法も知りました。それは簡単です。「自分に妥協する」ことです。今まで経験した挫折の根幹はここにありました。消防の皆さん。今日は非番ですか?学生の皆さん。今日は休みですか?「まあ、こんなもんか。」「疲れたからもうやーめた。」「誰かがやってくれるさ。」はい!挫折人生のスタートです。「まあ、こんなもんか」いいえ。それはそんなに浅いものではありません。「疲れたからもうやーめた。」みんなそれ以上やってますよ。「誰かがやってくれるさ。」いいえ誰もやってはくれません。

11.終わりに(今、挫折している君に)

これを最後まで読んで下さった、今現在、救急救命士を目指している皆さん。厳しい現実ですが、救急救命士を目指した全ての人が、救急救命士になれるわけではありません。皆さんの中にもこれから挫折を味わい諦めそうになる時が訪れるかもしれません。

救急救命士になれなかった多くの人は私と同じような挫折を経験したのだと思います。

挫折は神様が与えた試練?私にはよくわかりません。ただ言えるのはどんなときでも与えられた状況で最善を尽くすことです。しんどくなければ勉強ではありません。楽な勉強など対した成果を得られません。憂鬱こそが黄金を生むのです。

もう少しで国家試験ですね。今が一番苦しい時だと思います。最後の最後までもがいて下さい。

写真14
勤労感謝の日に地元の保育園から頂いた心温まる感謝状です。
(いつも町を守ってくれてありがとうございます。怪我しないでね)

そしていつか、一緒に救急救命士としてに社会貢献が出来る事を楽しみにしています(写真14)。


OPSホーム>基本手技目次>130525挫折のすすめ~事故、留年、そして不採用

13.5.25/11:39 AM

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