140810北海道ハイテクノロジー専門学校救急救命士学科「卒業生たちの10年」(12)救命士教育とは

 
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140810北海道ハイテクノロジー専門学校救急救命士学科「卒業生たちの10年」(11)救命士から看護師への進路変更

1.自己紹介

 氏 名 :野村利明(のむら としあき)
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出身学校:電気通信大学、東邦大学医療短期大学看護学科(東京消防庁委託生)、カリフォルニア州カネホバレーエデュケーションスクール(米国)
経 歴 :東京消防庁→シェーファー(米国民間航空救急会社)→北海道ハイテクノロジー専門学校救急救命士学科
趣 味 :航空機に乗ること、操縦すること


シリーズ構成


浦辺隆啓
うらべたかひろ
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日産クリエイティブサービス
陸別PG・車両管理課 レスキュー隊救急救命士


「卒業生たちの10年」

サブタイトル
〜救命士教育とは〜

始めに今回の月間消防でのシリーズ「卒業生たちの10年」の最後を受け持たせていただき大変恐縮です。私は今まで執筆していた卒業生とは違い、民間救命士養成校の教員ですので、違った視点から書かせて頂きたいと思います。

私の勤務する民間救命士養成校は救急救命士法が施行された平成3年の翌年の平成4年に開設されました。救急救命中央研修所(現:救急救命東京研修所)が上野の仮庁舎で定員60名から救命士教育を始めた時期が平成3年8月ですから、同じ救命士教育の草創期に誕生した民間救命士養成校の第1号でした。

その中で今回執筆した学生は学科創立10年目に入学してきた学生で第10期生にあたります。そして私は入学してきた彼らの担任をさせていただきました。現在23期生までが在学しておりますが、当時は開設時の混乱は収まっているとはいえ、救命士教育に携わる教員も少なく、まだまだ試行錯誤が続いている時代でした。その中で彼らは、学科教員をして「過去一番濃い期生」と言わしめるほどの特徴を持った学生が揃った期生でした。

卒業後もその特性は変わらず、防災ヘリに行った者、消防学校教官になった者、消防から看護学校に行った者、民間救命士になった者、看護師になった者など多士済々です。もちろん学生時代はどのように成長するかわからない原石たちでしたが、その原石たちが卒業後耀きだし、各方面で活躍していることを聞くと本当に嬉しくなります。

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民間救命士養成校の特徴は、ほとんどが高校卒業後入学してくるということです。そこで教えることは救命士教育と同時に人間教育だと思います。ただ在学中のたった3年間で原石を耀く鉱石にできると考えるのはおこがましい限りです。彼らの文章の中で痛感させられるのはいかに職場こそが人を変え人を成長させるかいうことです。その点で消防という土壌は人を成長させるのに何と肥えた土壌なのだろうということです。民間救命士養成校の目的は救命士の教育と共にいかに卒業後耀けることができるように素地を作ることだと思います。そこで今回はサブタイトルを「救命士教育とは」ということにフォーカスをあてて考えてみたいと思います(写真1:民間救命士養成校の目的は救命士の教育と共にいかに卒業後耀けることができるように素地を作ることです)。


2.救命士の民間養成校の教員を選んだのは?

教員の前に何故消防官になったか?というところですが、これは学生と全く変わりません。つまり「人の命を救いたい」という高尚な意識が第一にあったわけではありません。家に遊びに来ていた消防に就職した先輩が「消防はいいぞ〜週に3回行けばいいんだからな」と言った言葉が理由です。読者の皆様はその意味は嫌と言うほどお分かりですよね(笑)当時まだ高校生でしたが、心の隅に「そうか消防は週3日しか働かなくて良いんだ。なんか面白そうだな」と巣付いたのは事実です。それがきっかけとなり、大学卒業において今で言うIT企業に内定が決まっていたのですが、その言葉が頭に蘇り大逆転で消防に就職を決めた理由です。

ただ私の憶測ですが読者の皆様もそのような方が多いのではないでしょうか。本当に「人の生命財産を守りたい」といった消防法第1条よろしくの崇高な使命に燃えて消防官を目指した方はどれだけいるでしょう。もちろん消防を目指した理由の良し悪しを問うているのではなく入職してからいかにその意識が変わったのでは?ということです。私もそうでした。そのような不純な動機が理由でしたが前項に記しました通り職場に入り消防学校で鍛えられて意識が変わりました。皆様も消防に入って初めて意識変革し成長していったと言う方が多いのではないでしょうか。

東京消防庁での仕事は厳しいながらに大変充実していました。その中で最大のトピックスと言えばやはり、救命士制度が発足したということでしょうか。平成元年から放送された救急医療キャンペーン「救急医療にメス」の当時のニュースキャスター黒岩祐治氏(現神奈川県知事)と東京消防庁が協力し、医療行為の出来ない現場を何とかしないといけないと大衆をも動かしたのです。救急現場に医療行為をいかにして持ち込むか?その第一弾として東京消防庁が考えたことは、医療行為のできる医療従事者を乗せると言うことでした。すなわち医師か看護師です。フランスではドクターカーとして医師が乗っているものの、日本の現場を考えるとそれは困難でした。であれば次に看護師を乗せてはどうかと。次に問題となったのはその看護師をどこから配置するかと言うことです。ここで東京消防庁は画期的な考え方を打ち出しました。それは現役の看護師を救急車に乗せるのではなく現役の消防官に看護師の資格を取らせるというものでした。もちろん看護師になるのは数ヶ月でなれるものでもなく、3年間はかかります。学費等も公費で賄い多大な費用がかかります。それでも何とかして現場に医療を持ち込まないとならないといった切実な思いがこの計画を推し進めました。

そのなかで私も東京消防庁看護師委託研修生として3年間学校に通わせていただきました。今回の趣旨からは外れるので割愛いたしますがこの3年間も実り多い経験ができました。

ただ私が入学したのが平成3年でその年に救急救命士法が制定されました。翌年平成4年には第1回救急救命士国家試験が行われ同年に救急救命士が現場で活躍し始めました。当初10年はかかるのでは?と言われていた現場への医療行為の導入がほんの数年で行われてしまったわけです。これは嬉しい誤算だったと思います。黒岩祐治氏らのマスコミを通じて伝えた医療変革の必要性が国民を動かし、その民意が後押しして救急救命士制度は出来上がったのだと思います。

3.アメリカでの経験

東京消防庁で救命士として活動しているときは、生命を守る第一線で働いているという使命感と誇りがありました。定年までずっと勤務するものと考えておりましたが、地元が北海道と言うことと家庭の事情により止むを得ず退職する事を決意いたしました。しかし、ただ辞めるのではなく東京消防庁在職の際に常々思っていて、やりたいことがありました。それは日本がベースにしたアメリカのパラメディック教育を学ぶことです。さらに航空機搬送の実際を学ぶことです。それにはただ行って見学的に学ぶのではなく、実際にアメリカの資格を取得し、救急車に同乗、飛行機に同乗して共に働かなければ本当の部分は解からないのではと思いました。それには少なくとも1年以上は必要で、在職中はとても出来ない話でした。この期間をチャンスと捉え、一人渡米いたしました。

今思うとまだ若かったのだと思います。十分な情報も当時はなく、手探りの状態でなんとか、救急資格の基礎であるEMT−Bを取得することが出来ました。そこからそれをベースに研修させていただけないか(就労ビザがないので)多くの機関にあたりました。しかし研修のハードルはかなり高いものでした。

私の研修希望している民間航空救急会社は、航空機運用をしているので、EMT−Bだけでは話にならず、少なくとも自家用ヘリのパイロットと自家用固定翼航空機のパイロット資格を持っていないと研修できないと言われました。

ハードルが高いほど燃えるもので、それなら取得してやろうと思い立ちました。それもなんとかクリアし、ビザ期限の切れる前の数ヶ月間ですが、救急車及び航空機に同乗し研修することが出来ました。


アメリカの本土は広いので、患者にとって一番ふさわしい医療機関に搬送するにはビジネスジェット機しかありません。私の住んでいたロサンジェルスからニューヨークまで、救急車なら何日もかかる所をビジネスジェット機であるセスナサイテーションならわずか5時間で結ぶことが出来ます。飛行する空域も民間旅客機よりはるか上空で、空の色も濃紺となり地球がうっすらと丸み帯びているのが確認できます。大気圏と宇宙の間を飛んでいる(それだけ速く飛べる)ことを認識できる瞬間です。

 その中での行為は救急活動より、患者ケアに重点が置かれていました。短いとはいえ5時間の間密閉空間にいるということになります。パイロットと適宜コンタクトをとりながら、機内の与圧を調整したり、バイタルに変化がないかを観察をしていました。研修の際求められていた航空機の知識が必要ということを痛感させられました。また看護の知識も活かすことが出来ました。本当に良い経験が出来たと思います(写真2:アメリカでの経験)。この経験はいまでも入学した学生へのオリエンテーションで伝えています。

4.消防と民間の救命士教育の違い

消防学校での教育、またそこでの専科教育を受けてこられた読者の方々が、民間の救命士養成校の授業をご覧になられると非常に驚かれるのではないでしょうか。私も初めて現在の専門学校で教壇に立たせて頂いたときは驚きました「これは学級崩壊ではないか」と。

仕事で学んでいる消防職員の養成所と学生という立場の民間養成所。ここに大きな違いがあります。最初のモチベーションが違うのです。それが、実際の国家試験の結果にも表れています。

ただ、消防のやり方をそのまま活用するのでは空回りするだけです。現代っ子の育った背景をもとにいかにモチベーションを高く持って、やる気を喚起させるかというところです。

谷底に突き落とし、這い上がって来る反骨精神を期待するのは今では効果がありません。私も最初それで大失敗しました。いつまでも同じ手法は効かないのです。両手で彼らを救い上げ、時には谷底からお尻を押し上げなければなりません(写真3:民間養成校は消防学校とは違います)。民間養成校の授業は消防の養成所と比べて最難度です。1授業(90分)彼らを寝させることなく講義できれば優秀な教員でしょう。そこが教員の腕の見せ所です。残念ながら私はまだその領域に達していませんが(苦笑)

5.人間教育

最後に全くの私事で恐縮なのですが身内に起きた出来事を書かせて下さい。

その前に、毎年入学してくる学生最初の医療系授業は私の受け持っている「心臓血管」なのですが、その試験内容のことをお話しなければなりません。その問題の第1問目は「救急救命士が意識のある患者でも使用できる薬剤は何か?」という問題を出題しています。勉強の進んでいる者は「アドレナリン?でもあれは心機能停止でないと使用できないし・・・」さらに勉強の進んでいる者は「乳酸リンゲル液?近年心肺機能停止でなくとも使えるみたいだし・・・」学生はいろいろ頭を悩ませます。しかし正解は「思いやりのある声かけ」です。皆様の中にも救急隊が到着して話を聞いているうちに「良くなったのでもう大丈夫です」といった場面に少なからず遭遇しているのではないでしょうか。

身内の話に戻るのですが、そういう問題を出している自分自身が、救急隊の声かけは患者、家族にとって最良の薬なのだと再認識させられた出来事がありましたので紹介いたします。

昨年秋、私の父親が亡くなったのですが、その亡くなる前に救急要請した際、駆けつけた女性救命士(当校の卒業生)の話です。私の両親は千歳市に2人で暮らしていたのですが、父が肝臓癌の末期で入退院を何度か繰り返していました。その日も日中は調子が良かったものの、深夜になり骨まで転移した部位が痛み始めます。常々私は立場上「安易に救急車を呼ぶ輩が多すぎる。救急隊は多忙なのだから安易にタクシー代わりに呼んではいけない」と口うるさく両親に告げていました。そのため、父も母も最初は絶対救急車を呼んではいけない。なんとかタクシーで病院に行けないかと考えていました。しかし動くことが出来ないためそれもままなりません。次に考えたのが安静にしていれば痛みが和らぎ動けるようになるのではということでした。しかし一向によくなる気配もありません。そこで、深夜に救急車を呼ぶと申し訳ないから夜が空けたら呼ぼうと決めて我慢していました。そして夜が明けたのを確認して初めて救急要請したそうです。母は最初に救急隊に「お休みの所こんなのでお呼びしてしまい申し訳ありません」と謝ったそうです。それに対してその女性救命士は母の背中を擦り「辛かったですね。大丈夫ですよ。私たちはそれが仕事なので遠慮することは全くありません。苦しい時は呼んで下さってかまわないですよ」と言ってくれたそうです。この言葉が両親にとって本当に救われてその時の救急隊が神様に見えたそうです。

残念ながら父は数日後この世を去りましたが、母ともどもこの救急活動には大変感謝し、救急隊員の大変な仕事、素晴らしさを評価していました。

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救命士に求められるもの。それは知識、技術は当然必要でしょう。しかし日々研鑽していても救えない命があるのは事実。そして残念な転帰になろうとも最後に接するのは救急隊員です。そこで必要なのはやはり心なのではないでしょうか(写真4: 救命士に求められるものはやはり心)。

民間救命士教育にたずさわる1人として、今後も「人間教育」に力を注ぎ「心のある救命士」を1人でも育てていきたいと考えています。


シリーズ構成者ご挨拶

浦辺隆啓(日産クリエイティブサービス
陸別PG・救急救命士 )

まず、今回1年間という長期にわたって同期生達と「卒業生たちの10年」を連載させていただき、編集の玉川先生を始め、東京法令出版の担当の方々に深く御礼申し上げます。

構成者として力不足を常に感じた一年でしたが、執筆者、各関係機関のご協力で一度も穴を開けることなく12回の連載を完結できたことに今は胸を撫で下ろしています。私たちの連載は読者の方々の月に一度の楽しみになれたでしょうか?

先日、引っ越しのため荷造りをしていたところ、救急救命士学科の卒業文集を偶然発見し、その中の「将来の夢」という項目に目を通してみました。そこには「隊員に慕われる救急隊長になる」「救助もできる救命士になる」「立派な家を建てる」など各々の夢がたくさん書かれていました。卒業10年ですでに自分の夢を叶えた者も大勢います。救急救命士学科の教員たちの間で私たちは開校以来一番濃い期生と呼ばれているそうです。それを感じさせるバラエティ豊かな文集でした。そんな無法者達が今回の連載をきっかけにさらに飛躍し、各方面で活躍することを切に願い、構成者の挨拶と代えさせていただきます。ありがとうございました。


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