月刊消防 2021/08/01, p76
空飛ぶクルマ
緊急走行
私が救急隊となった当初、機関員として運転する事が多く、傷病者を現場から病院まで最短ルートでブレーキやカーブでの荷重移動に注意しながら走行して救急搬送を行っていた。救急搬送を終え帰署途上の車内で、救急隊長から「さっきの事案、何が疑われる傷病者やった?」私は、自宅内で誤って転倒した75歳女性が右大腿骨の頸部付近の痛みを訴えていたため、「右大腿骨頸部骨折を疑います」と答えた。すると隊長は「緊急走行中に、傷病者が何か言っていたのは聞こえたかい?」と尋ねた。私が「傷病者は、救急車の振動で痛い痛いと言っていた」と答えると隊長は「現場から病院まで最短ルートで走行したのはわかるけど、道路状況が悪い道に加えて信号が多い道を通るなら、少し遠回りになっても、道路状況が良くて信号が少ない道を通った方が振動も少ないし、傷病者のためにいいよ」と言った。最短ルートで、1秒でも早くと思って運転していた私は、その救急隊長からの一言で、傷病者に寄り添った運転ができていなかったと反省させられた。
あれから数年が経ち、機関員として運転する事はなくなり、助手席で救急隊長として活動する事が多くなった。
「79歳女性が自宅の段差で誤って転倒して左大腿骨頸部付近の痛みを訴えている」との通報内容で出動した。隊長である私は「現場から病院までの最短ルートを走行するのではなく、少し遠回りになっても道路状況が良い道で振動に注意しながら走行するように」と機関員に指示を出した。
病院に到着すると、救急車に同乗した傷病者の息子がすごい剣幕で私に「救急車を運転している人は、病院までの道を知らないのか?救急車が遠回りして走っていいのか?」と怒鳴りつけた。私は、「救急車は遠回りしているのではありません。最短のルートだと道路状況が悪くて、救急車の振動でお母さんの大腿骨頸部が痛くなるので、ガタガタしない道を走行して搬送しました」と説明した。
よくよく話を聞いてみると、傷病者の息子が先日、仕事で出張した際に、タクシーで遠回りされタクシー代が高く払った事があり、救急車までも遠回りされたと勘違いしていたのだ。それを聞いて、私も現場を出発する際、傷病者と同乗した息子に、「左大腿骨の付け根付近の骨折が疑われるため、救急車の振動で痛みがあると思われるので、少し遠回りのなってもガタガタしない道を走行して病院へ搬送します」と伝えるべきであったと反省した。
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フランスの心理学者、ピエール・ジャネの著書「被害妄想―その背景の諸感情」の中には、「日常的な感情が被害妄想へと展開する」と書かれている。傷病者の息子にとっては、救急車と出張先のタクシーが重なってしまった
救急救命士として特定行為実施前のインフォームド・コンセントは重要であるが、救急搬送における搬送経路の説明も重要であると感じた。今後は救急搬送経路の説明を含め、家族に寄り添った救急活動を心がけたい。
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