近代消防 2025/02/15 (2025/03月号) p87-9
「救急隊が行った現場環境の評価が医師の診断に寄与したウェルニッケ脳症の一例」
宮村 一海
目次
1.はじめに
今回、脳血管障害を疑って搬送した傷病者がウェルニッケ脳症と診断された症例を経験した。本症例では救急隊が行った現場環境の評価が医師の診断に寄与したと思われる。
ウェルニッケ脳症とは、長期にわたるアルコール摂取による栄養障害を背景としたビタミンB1(チアミン)欠乏症である。意識障害、失調性歩行、眼球運動障害の三徴候が特徴的症状である。
当消防本部におけるウェルニッケ脳症の搬送状況は平成17年から令和5年中までで10件と少なく8割が中等症以上であった(001)。救急要請される際の主訴としては、意識障害、めまい、痙攣発作、両下肢脱力と一貫した主訴はなく、様々な主訴で救急要請されていた。
「意識障害、失調性歩行、眼球運動障害」は脳血管障害でも見られる。ウェルニッケ脳症と脳血管障害の鑑別点はどこであったのか本稿で論じる。なお現場写真008、009は実際の写真、その他の写真は再現である。

001
当消防本部におけるウェルニッケ脳症の搬送状況
2.症例
57歳男性。「めまい、ふらつき及び右眼の焦点が合わない。」という通報内容で出場した。
筆者ら救急隊は出場中の車内において「めまい、ふらつき、右眼の焦点が合わない」という各主訴から想起される疾患を自由に出し合いながら、傷病者の状態に応じ予想される携行資機材や搬送方法、病態に適した搬送先医療機関を確認した(002)。3つの主訴としていずれも「脳血管障害」が想起疾患となる。その他緊急度・重症度を考慮した際の優先順位としては、循環器障害による失神性めまいや耳鼻科領域である末梢性めまい、熱発によるふらつきや、焦点が合わない主訴については眼科領域の可能性も考慮した。
接触時、傷病者は居室に仰臥位で顔色正常(003)。きつそうな印象(004)で、周囲に嘔吐痕が確認できた(005)。筆者ら救急隊が視界に入ると、自分で歩こうと立ち上がろうとするも(006)、フラフラして倒れそう(007)な状況であった。
自宅内には飲み物の空き缶や日用品、食べかす等が散在しており(008,009)、生活環境は良くない印象。独り暮らしで、本人から食事も摂らずにアルコールばかり摂取(010)していることを聴取した(日常的なアルコール多飲と食欲不振が継続)。以前近医で高血圧を指摘されるも内服管理はしていなかった。
明らかな神経学的所見はなく、めまいについては体動時に増悪し蝸牛症状が認められたこと。バイタルサインについては意識レベルは清明とはいえず、JCS1と評価し、血圧高値であることに着目した。これらの所見から「脳血管障害」と「末梢性めまい」の2つを鑑別疾患とした。末梢性めまいの方が日常的に遭遇する所見と一致する部分が多かったが「焦点が合わない」症状は末梢めまいでは想起できないものであった。
長期の低栄養、アルコール過剰摂取等に加え、生活環境やそれに伴う背景を考慮して発症しやすい代謝性疾患として挙げられる「ウェルニッケ脳症」の可能性も上記2つの鑑別疾患に加えて医師に伝えた(011)。病院選定については、全ての診療科が揃っている2次の総合病院を選定。現場写真も併せてタブレットにて搬送先の病院へ送信した。
院内搬入後、MRIにてウェルニッケ脳症と診断され、入院の上ビタミンB1投与を行なった。

002
予想される携行資機材や搬送方法、病態に適した搬送先医療機関を隊員間で確認した

003
傷病者は居室に仰臥位で顔色正常

004
きつそうな印象

005
周囲に嘔吐痕を確認

006
筆者ら救急隊が視界に入ると、自分で歩こうと立ち上がろうとした

007
しかしフラフラして倒れそうであった

008
自宅の様子

009
自宅の様子

010
「食事も摂らずにアルコールばかり摂取していた」と聴取

011
医師に「ウェルニッケ脳症」の可能性を伝えた
3.考察
本症例で重要だったのは、救急現場に散りばめられている多くの情報の中から鑑別疾患に必要なキーワードを集めふるいにかける作業である。傷病者を観察・問診し、環境や背景を評価する中で鑑別に必要なキーワードは多く入手できる。次にこれらを取捨選択し、鍵となるなキーワードだけを残す重要性を再確認した。本症例では「アルコール多飲」「日常的な低栄養状態」が鍵となるキーワードである。
本症例では現場の状況からウエルニッケ脳症の可能性が高いと考えた。現場写真をタブレットにて搬送先の病院へ送信したのは、担当医師及び救急外来のスタッフ全てが閲覧することで、病院サイドが現場環境や傷病者の背景を早期に確認し、迅速な初療につなげるためであった。
救急隊は病院前救護のプロフェッショナルである。救急現場は救急隊しか見ることができず、その状況を医師に伝えることもその場を見た私達救急隊にしかできない。本事案においては、生活環境の状況やそれに伴う背景などの情報が「場の評価」から分かるポイントであった。現場において五感を駆使して情報を収集し、的確に伝達する能力が私達救急隊には求められている。
ここがポイント
ウェルニッケ脳症とはビタミンB1(チアミン)不足によって意識障害(重度では昏睡。軽度では無気力無関心)や眼球運動障害(眼振)、運動失調(歩行時のふらつきから歩行不能まで)を呈す疾患である。ビタミンB1は細胞内でブドウ糖を分解するのに必要な栄養素だが、これが不足することによって、特にエネルギー供給のほとんどをブドウ糖に頼っている脳に障害を引き起こす。診断には病歴、とくに生活歴が重要で、本症例のようなアルコール多飲者の意識障害では真っ先に思い浮かべる疾患である。この点から、筆者が現場写真を医師へ送信したのは有効であった。

所属:八代広域行政事務組合消防本部
出身地:熊本県八代市
消防士拝命年:平成17年
救命士合格年:平成24年
趣味:サッカー


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