月刊消防 2025/04/1, 47(04)通巻550号 p78
定年退職君
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『最後の言葉』
救急救命士としての20年以上のキャリアが今年で終わる。これまでに無数の命に向き合い、無数の現場を駆け抜けてきた。その中でも特に印象に残っている出来事がある。もう10年にも前になるが、急性大動脈解離でお亡くなりにご婦人の最後の言葉、「胸が苦しい」が耳に残る。
あの日も、通常の勤務が始まった。救急指令が鳴り響き、現場へ向かった。到着すると、ご婦人は職場の廊下でうずくまっていた。顔には苦悶の表情が浮かび、呼吸が浅く早かった。近くにいた同僚が「急に胸が苦しいと言い始めたんです」と訴える。
血圧は測定するまでもなく、橈骨動脈で明らかな左右差を感じる。典型例としての急性大動脈解離の可能性を疑い、高次医療機関への早期を決断した。搬送中、ご婦人が「胸が・・・苦しい」と言い、次の瞬間、心肺停止状態となった。その声が、今でも私の心に深く刻まれている。
搬送先の病院でご婦人は直ちに手術室へと運ばれたが、残念ながら救命には至らなかった。その時、私は救急救命士としての自分の無力さを痛感した。
「胸が苦しい」というご婦人の言葉は、単なる症状の訴えではなく、人生の最期を迎える瞬間の叫びだった。60年以上を生き抜いて、無数の言葉を発してきた彼女の最後を言葉である。
命を救うことができなかったことは、私にとって大きな痛みとなり、今も心の中に残っている。しかし、その一方で、彼女の最期の言葉を受け止めたことが、救急救命士としての責任の重さを改めて教えてくれた。
救急救命士は、時に、最期の瞬間を見届け、その人の人生の最期の言葉を受け取る場合がある。場合によっては、家族への伝言もあるかも知れない。
それは、命の尊さを実感すると同時に、人間の尊厳を守るという大切な役割でもある。
これまでの経験を振り返ると、多くの出会いや別れが頭をよぎる。命を救えた時の喜びや感謝の言葉、救えなかった時の無力感や悲しみ。ほかにも同僚や友人との死別。そのすべてが私を成長させ、救急救命士としての誇りを持たせてくれた。
ご婦人の「胸が苦しい」という言葉は、これからも私の心に残り続けるだろう。それは、救急救命士としての責任の重さを忘れないための大切な記憶であり、命の尊さを再認識させてくれるものだからだ。
定年退職後も、救急救命士としての経験を生かし、何らかの形で社会に貢献できればと思う。これまで支えてくれた家族や同僚、そして、私を頼ってくれた傷病者の方々に感謝の気持ちを伝えたい。
最後に、これから救急救命士を目指す若い人たちに伝えたい。命を預かるということは、計り知れない責任と重みがある。だからこそ、常に誇りと責任を持ち、全力で向き合ってほしい。
これが私の救急救命士としての20年で感じた心からの思いであり、救急救命士として「最後の言葉」である。
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